記述

戯曲など、書いたものを載せていきます。

御身(おんみ)

   真夏の黎明、延長された楽園、半透明の日差しが森全体を透かしている、その真っ只中に僕は立っていた。草木はガラス細工のように鋭く光を反射しており、森閑とした木立の間には鳥たちが飛び交い、楽しげな交信をしている。クマゼミの声が絶え間なく続き、それは渓流のようでもあった。実際に、近くには川も流れているのかも知れない。足元の茂みに湛えられた朝露が、僕のサンダルを湿らせ、確かに僕は、誰かに呼ばれているような気がしていた。

   僕はしばらく息を吸ったり、鳥の声を聞いたりして、これらの茫洋たる風景に半ば自分自身を溶かし込んでいる、そのような錯覚に陥っていた。陽は刻々と昇り、光の具合が変化して、僕の目の前に日差しが落ちた。僕は、はっと自分を取り戻し、それからはじめて歩き出した。僕を呼んでいる、誰かを探しに。

  

                                            *

 

     誰が僕を呼ぶのか。

    僕にはそれが一体誰なのか、そして何故呼ばれるのかは分からないが、確かに呼ばれていたということだけは、ハッキリと分かるのだ。それは物憂い呼び声で、深い眠りを妨げられたときのような浮遊感と、無気力のなかで、僕は、蔦の絡まった樹木の冷たい木肌に触れながら、森の奥へと進んでいく。一歩、また一歩と歩くたび、サンダル越しに濡れた草木が僕の素足をくすぐる。だがそれは不思議と不快ではなかった。

   次第に僕は足を早め、ひんやりとした草を踏みしめていく。すると眠っていた虫たちが追いたてられ、別の茂みへ、そそくさと逃げていく。僕の体は静かに汗ばみ、それは朝露と同じように光を乱反射する。早朝の森を半ば息を切らしながら、僕は呼び声に向かって歩いていくのだった。

 

   僕はこの森を知らない。また、僕はいつからここに居るのかも分からない。だが、僕はこの森に何度も来たことがあるように感じ、ずっと前からここに居るような気がしていた。過去からの断絶。僕は最早、ここにくる以前の自分を想像することも容易ではなかった。そこに焦点を当てようとすると、クマゼミや鳥の声に邪魔され、気がつくと目に見えるのは、今歩いている森林の風景だけになる。だが、僕は歩みを止めることは出来なかった。そして何度も焦点を当てようとし、その度に失敗を繰り返していた。目の奥に大きなしこりを感じた。

 

                                           *

 

   僕は薄青いTシャツに短パンを着ていて、何気なくポケットに手をいれると、ハンケチーフが入っていた。何でそんなものを持っているのか分からないが、それは女物のようで、白のレース柄だった。僕は、額の汗が今にも零れ落ちそうだったので、ハンケチーフでそれを軽く拭った。石鹸のような良い匂いがした。僕はその匂いを妙に懐かしく感じ、過去の記憶への糸口をそこに見つけたような気がした。だが、その予感は通りすぎてしまい、あたりにはまた、黄色い靄がかかったような、真夏の森が広がっていた。僕はハンケチーフを四つ折にしてポケットにしまった。

 

   あたりには風はなかったが、木陰に守られたこの空間は、ひっそりと冷たく呼吸していた。鳥たちが優位な世界、姿の見えない無数の生き物たちが、確かに声をあげてそこでは生きていた。夏の光を一身に浴びながら呼吸する森。僕は目覚めつつある森の生き物たちと同じように、光を吸い込んでいた。

  僕は今さっきの印象を、ハンケチーフの中の記憶を思いだそうと、懸命に記憶を手繰ろうとしていた。呼び声の正体もそこにあるような気がした。そして呼び声は、今やそんなに遠くないところまで来ているようだった。

 

                                           *

 

   少し開けた場所に出ると、先ほどまでは声だけの存在だった鳥たちの姿が見え、梢から斜めの光線が差し込んできた。あたりがボウッと熱をもち、すると今まで眠っていたアブラゼミが鳴き始めた。茹だるような生き霊の声。鋭い太陽が僕の皮膚をジリジリと焼く。共鳴するようにして他のアブラゼミも唸り始める。すると鳥の羽音とともに、ジジジッという蝉の断末魔が聞こえ、一番近くで鳴いていた声が消え去る。凄まじい夏の森だった。

 

   すると僕は自分が森ではなく、都会の雑踏のなかを歩いているような錯覚に陥った。いや、それは錯覚ではなく、僕の持っている記憶だった。僕は誰かに手を引かれて、人の流れに逆らうようにして歩いている。陶器のように冷たく、華奢な手だった。そして微かに、あのハンケチーフと同じ、石鹸の匂いを漂わせていた。灰色のビル群と行き交う無数の人々が、重力の反転を感じさせるような一つの奔流だった。そのなかで時間が止まってしまったように、僕とその女の人だけが取り残されたまま歩いている。いや、もう一人いた。もう一人、その女の人とそっくりな顔をした人が、僕のもう一方の手を引くのだった。彼女たちは双子だった。僕には、八つ以上歳の離れた、双子の従姉妹がいた。

   二人とも、揃いのワンピースを着ていて、歩くたび、柔らかに靡く。それは巨きなハンケチーフのようである。片方が振り向いて、僕に何か言う。しかし記憶の中でそれは聞き取れず、ただ優しい口の開き方だけが見える。もう一人も同じようにして僕に何か言う。とてもゆっくりとした口調なのだが、それも聞き取れない。それは眠りから呼び起こされるような鬱陶しさもあったし、寝かしつけられるような安堵感と心地よさもあった。

   

   さっきまでの呼び声の正体は、実にこんなだった。

 

                                         *

 

   しばらく立ち尽くしていた僕は、僕の頭を越していった蜂の羽音に驚かされて、再び目の前の森林に立ち戻ってきた。呼び声の正体が分かった以上、引き返す理由もない。そのままぐんぐんと、僕は歩み始めた。

  導かれる先は、どうやら鬱蒼とした茂みのようだった。日差しから逃れた僕は、再びひんやりとした静けさを味わった。茂みの中をしばらく歩いていくと、そこは湖のほとりだった。より涼しく、より静かで、そこは真夏の黎明を凝縮させたようだった。ようやく辿り着いたな、と思った。するとどこからか、赤子の泣き声が聞こえてくる。懐かしい響きだった。幽玄な湖の奥から、それは過去からの木霊のように僕を惹き付けた。赤子の泣く方へ進んでいく。呼び声は、僕を赤子のいるところへ導いていたようだ。彼女たちに手を引かれるように、僕は湖のぐるりを歩いて、反対側の茂みに向かう。赤子の泣き声は近づくほど激しくなっていくが、まだその姿は見えない。この叢の奥にいるのだ。

 

                                          *

 

   回り込むと、草の筵の上で白い布に包まれた赤子が、顔を真っ赤にして泣いている。僕は赤子をゆっくりと抱いた。見た目よりずっと、ずっしり重かった。そっと揺らしてやると、やがて赤子は泣き止んだ。小さな手が見えた。指先で触ると、蛍の光のように熱かった。今にも折れてしまいそうな、嘘のように小さな指。熱く呼吸するまんまるとした胴体。僕は「御身」という二文字が頭に浮かんで、それを赤子に当てた。あまりに脆く、そして尊い御身だった。あるいはそれは、僕の弟だったのかも知れない。

 

   僕は御身を胸に抱きながら、それをいたわる気持ちでいっぱいだった。そのあまり、僕は不安さえ感じた。僕は御身を手から落としてしまう妄想を何度もした。その度に身震いをした。逆に、その妄想に熱中することで、この耐え難い不安を解消しようとした。僕の手から抜け落ちる御身。御身が地面に叩きつけられる。鈍い音をたてて潰れる御身。何度も何度も、その苦い思いを反芻した。

 

   すると、かの従姉妹たちが僕を責めるのだ。

 

─どうしてそんなことするの?

─何で?何でなの?

─やめなよ

─ひどいよ

 

  やっと僕の耳に聞こえた彼女たちの声は、怒りに震えていた。僕はどうしようもなく恥ずかしい気持ちで、身が張り裂けそうだった。うずくまって、今にも泣き出したかった。何か嘘を言って誤魔化そうとしたり、言い訳を言おうとしても、口が開かなかった。

 

   妄想から立ち直り、五体満足な御身を確かにこの胸に抱いているのに、従姉妹に責められたことの悲しみと罪悪感でいっぱいだった。もう彼女たちは僕に優しく呼び掛けてくることはない。あのじれったい微睡みの遊びをしてくれることもない。彼女たちは僕に失望し、遠くへいってしまったのだ。

 

   僕は御身を抱き締めた。御身のつるつるとした頭皮、温かな頭皮に顔をあてて、僕は泣きじゃくった。御身の手をまるごと僕の掌で包んだ。小さく動いた御身の手は、トカゲのように独立した器官だった。森には依然としてアブラゼミが鳴いていた。静かな木陰は湖の匂いがした。そのなかで僕は御身を抱き締めて眠りについた。真夏の黎明を抱き締めて寝た。それは真白なシーツのように、すべすべとして温かかだった。            

                                          (終)